朝のコーヒーを片手に、宅配された封筒の一つを開けると、そこには「理事長 様」と書かれた苦情文書が入っていました。また始まるのか、と肩を落とす夫の横顔を見て、私は何も言えませんでした。
マンション理事長になって半年。最初は「みんなが住みよい環境を作りたい」という気持ちで引き受けた夫。でも実際は、住民たちの不満を受け止める「感情のゴミ箱」のような役割を担わされていました。
「賛成派」と「反対派」に分かれて争っている大規模修繕の問題。理事長という立場上、中立的に情報を伝え、決断を促さなければいけないのに、すれ違う度に視線をそらす住民たちの冷たさに、夫は日に日に疲弊していくようでした。
「俺は間違ったことを言ってないんだ。数字とデータで説明してるのに、なぜ分かってもらえないんだろう」
確かに夫の言うことは正論です。修繕積立金の不足は明らかで、将来のリスクを考えれば値上げは避けられない。そんな簡単な算数ができない人なんていないはずなのに、住民集会では感情的な反発ばかりが目立ちます。
夫が理事長になる前は、マンション内の住民同士の関係も悪くはありませんでした。エレベーターで会えば会釈し、時には世間話をする。そんな当たり前の日常が、いつしか「あの派閥の人」と分断される雰囲気に変わっていったのです。
「何のために理事長なんかやってるんだろう」
ある夜、書類を見つめる夫がつぶやきました。その姿を見て、私は昔の夫を思い出しました。会社でプロジェクトをまとめていた頃の自信に満ちた表情は、今はもうありません 😢
【💡行動ヒント:悩みを「役割上の問題」と自分自身を切り離して考えてみましょう】
📎理由:役職や立場に付随する問題を自分自身の価値と混同すると、感情的な消耗がさらに激しくなります。「理事長としての私」と「一住民としての私」という視点の切り替えが、精神的な余裕を生み出します。
理屈では動かない反対派たち——正論の壁にぶつかる日々
「だから言ってるでしょう!このまま放置したら10年後には大規模修繕ができなくなるんですよ!」
先日の臨時総会。夫は丁寧に作成した資料をもとに説明していました。スライドには修繕積立金の推移グラフ、他マンションとの比較表、建物診断の結果が並びます。
でも、奥の方の席からは「今が大変なんだ!」「年金生活者には無理だ」という声が飛び交い、中には「理事長は業者と癒着しているんじゃないか」という心ない言葉まで。
帰り道、夫は無言でした。家に着くと、ようやく口を開きました。
「わかってるんだ。皆さんの家計が苦しいことも、値上げという言葉に反射的に反対したくなる気持ちも。でも、感情だけで決められないことがあるんだ…」
夫の理屈は完璧なのに、なぜか伝わらない。それは、人間が理屈だけで動く存在ではないからなのでしょう 💭
「あの佐藤さんなんて、前回の防災訓練の時はとても協力的だったのに。なんであんなに反発するんだろう」と夫は不思議そうにつぶやきました。
実は、後から知ったのですが、佐藤さんは最近ご主人を亡くされ、生活への不安を抱えていたとのこと。また、別の反対派の小林さんは孫の教育費で出費がかさんでいるという事情がありました。
数字の向こうにある人の事情。それに気づかないまま、正論を振りかざしていた私たち。もしかしたら、相手の言い分を「間違っている」と頭ごなしに否定するのではなく、まずはその背景にある感情や事情を理解することから始めるべきだったのかもしれません。
【💡行動ヒント:発言の「裏側」にある感情や事情を想像してみましょう】
📎理由:人は自分の感情や事情が認められないと感じると、どんな正論も受け入れられなくなります。相手の立場や状況を想像し、「なぜそう言うのか」の背景を考えることで、コミュニケーションの糸口が見つかることがあります。
「多数派工作」の影で生まれる、新たな不信感
「吉田さん家も賛成してくれるって。これで過半数は超えそうだね」
総会決議に向けて、夫は賛成派の住民たちと戦略を練っていました。一軒一軒説得して回り、少しずつ賛成票を増やしていく作戦です。
最初は「正しいことを伝えれば分かってもらえる」と信じていた夫も、何度も感情的な反発にぶつかるうちに、方針を変えたようでした。
「まずは決議を通すこと。それが理事長としての責務だから」
でも、その過程で気づかないうちに変わっていくものがありました。かつての「住みよい環境のため」という純粋な気持ちは、いつしか「反対派に勝つため」という対立構造に変質していったのです 😢
ある日、賛成派の中心メンバーだった田中さんから電話がありました。
「理事長、山下さん家が急に態度を変えたみたいですよ。裏で反対派と話してるって噂も…」
連日の駆け引きで、住民同士の間にも不信感が広がっていました。「あの家は本当は反対なのでは?」「あの人は二枚舌では?」そんな疑心暗鬼が、かつての和やかな近所付き合いを蝕んでいく。
夫は夜、ため息をつきながら言いました。
「こんなはずじゃなかったんだ。マンションのためと思ってやってきたのに…僕は何を守ろうとしてるんだろう」
多数派を形成するための「工作」に明け暮れる日々。気がつけば、夫自身も感情的になり、住民を「味方」と「敵」に分けて見るようになっていました。これは本当に正しい道なのだろうか…そんな迷いを、私も感じ始めていました。
【💡行動ヒント:「勝ち負け」の発想から離れ、全体の利益を再確認しましょう】
📎理由:対立が深まると、本来の目的(マンションの価値を守る)よりも「勝つこと」が目的化してしまいます。時には一歩引いて、「私たちは何のためにこれをしているのか」を振り返ることが大切です。
争いではなく、”聴く”ことに賭けた小さな決断
ある休日の朝、夫は珍しく早起きして出かけていきました。「ちょっと散歩してくる」と言って。
帰ってきた夫の表情が、いつもと違うことに気づきました。少し晴れやかで、肩の力が抜けたような。
「実は…公園で佐藤さんに会ったんだ」
反対派の中心人物である佐藤さん。夫は公園のベンチで、偶然出会った彼女と30分ほど話をしたそうです。
「最初は気まずかったよ。でも、ただ聞いてみたんだ。『どうして反対なのか』ではなく、『どんな不安があるのか』って」
佐藤さんの口から語られたのは、夫の想像以上に切実な事情でした。夫を亡くし年金だけの生活。将来への不安。そして何より「決まったことを一方的に押し付けられている」という疎外感。
「私が反対していると思われてるけど、本当は修繕が必要なことはわかってるのよ。ただ、いきなり大幅値上げじゃなくて、もう少し段階的にできないかしら…って思ってた」
夫は佐藤さんの言葉にハッとしたそうです。実は「反対か賛成か」の二択ではなく、「どう進めるか」の問題だったのかもしれない。そして、理事長という立場で「説明する」ことばかりに必死で、「聴く」ことをおろそかにしていたことに気づいたのです。
「明日から方針を変えようと思う。まずは臨時の意見交換会を開いて、みんなの声を聴く場を作ろう。PowerPointも資料も一切なしで」
夫はそう言って、初めて数週間ぶりに心から笑いました 💡
【💡行動ヒント:「説明」の前に「傾聴」の時間を意識的に作りましょう】
📎理由:人は自分の意見や感情が受け止められたと感じると、心を開きます。特に対立が深まっている状況では、まず相手の話を遮らず聴くことで、意外な共通点や解決策が見えてくることがあります。
本当に守りたかったもの——自分自身との和解
意見交換会の日、集会所には予想以上の住民が集まりました。
夫は一切の資料を用意せず、こう切り出しました。
「今日は私から説明することはありません。皆さんの声を聴く日にしたいと思います。大規模修繕のことでもいいですし、それ以外のマンションの困りごとでもいいです。どうぞ率直に教えてください」
最初は静まり返っていた会場も、徐々に声が上がり始めました。
「一度に値上げするのは厳しい」
「修繕は必要だけど、もう少し時間をかけられないか」
「子どもの遊び場も何とかしてほしい」
夫はただ黙って、一つひとつの意見に頷きながら聴いていきました。途中で反論したり、説明したりすることもなく。
そして最後に夫はこう言いました。
「皆さんの声を聴いて、私たちが守るべきものは『建物』だけではなく、『コミュニティ』なのだと気づきました。これからは、より多くの方の声を聴きながら、段階的な計画を一緒に考えていきたいと思います」
その日を境に、マンションの雰囲気が少しずつ変わっていきました。反対派と賛成派という対立構造は徐々に薄れ、「どうやって進めるか」を話し合う協力関係に変わっていったのです。
最終的に採用されたのは、5年かけて段階的に積立金を引き上げる案。全員が100%満足という訳ではなかったけれど、多くの住民が「自分たちの声が反映された」と感じられる結果になりました。
あれから数ヶ月、夫は以前より穏やかな表情で理事長の仕事に取り組んでいます。
「正しさを主張するより大切なことがあったんだね」と夫。
それは何かと聞くと、こう答えました。
「人の声を聴くこと。そして、自分の弱さも認めること。実は僕、正論を振りかざしていたのは、自分の無力感から目を逸らすためだったのかもしれない」
どんなに理屈が正しくても、感情を無視しては人は動かない。そして、相手の感情に寄り添うには、まず自分自身の感情と向き合う必要があるのだと。
マンション管理組合という小さな社会で、夫が学んだのは「聴く勇気」の大切さでした。正論という盾を下ろし、相手の言葉に耳を傾ける。そうすることで、対立は対話に変わり、分断は理解に変わっていくのだと思います 💭
【💡行動ヒント:「正しさ」より「関係性」を優先する場面を意識してみましょう】
📎理由:人間関係においては、「誰が正しいか」という勝負より、お互いの関係性を維持することが長期的には重要です。時には譲歩や妥協が、結果的に全体の利益につながることが多いのです。
近所付き合いも、家族関係も、職場の人間関係も、根本は同じ。”聴く勇気”を持つことで、あなたの周りの人間関係も少しずつ変わっていくかもしれません。
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